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褒めて、称えて、感謝する――母に!

 2019年8月27日午前4時50分、義母・松下しんは昇天しました。115年と5ヶ月の生涯でした。8月30日の前夜式、翌31日の告別式では私が喪主をつとめました。松下しんの三人の娘を差し置いて喪主を引き受けたのは、47年ものあいだ松下しんを母として一つ屋根の下で暮らしてきたので、喪主となることは自然に思われたためですが、家族の一人としてそのような役目を果たせることが少しばかり嬉しくもあったのです。


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 母が110歳を過ぎたころから救急搬送されて入院することが多くなっていました。とくに一昨年は半年の間に5回ほど続けて入院したのですが、一度のインフルエンザを除けば、ほかはすべて肺炎という診断でした。発熱し、血中酸素濃度が90%を切り、肺の呼吸音に雑音が混じるという症状となり、いずれも初期症状の段階で訪問医が入院の判断を下したため、重篤には至らず7日から10日くらいで退院することができました。その後、母が起居する部屋の温度と湿度管理に気を配ること、誤嚥性肺炎を防ぐために柔らかめの食事にすることと食後の口腔ケアを丁寧にすること、痰の吸引を行うことなどで、順調に1年半ほど過ごしていました。
 ところが、今年の6月から7月にかけて3度も救急搬送されて、どれも肺炎の疑いでしたが、血中酸素濃度の低下はあるものの熱は微熱に近く、呼吸音もそんなに悪いわけではなく、病院の検査でも肺炎ではないということでした。「何しろご高齢ですから」と担当医は言い、心肺機能の老化だろうということになりました。このときも回復は順調で、最短は5日、最長は12日で退院での許可が出ました。
 入院中にも血中酸素濃度の低下が起きたのですが、酸素吸入なしでも1時間もたたないうちに回復するのでした。そういうこともあって、心臓のために家庭でも常に酸素吸入をすることになり、食事のときも入浴中も酸素吸入の管を付けたままの暮らしとなりました。また、誤嚥がおきないように食事もすべて嚥下食として、食後には必ず痰の吸引を行うことにしました。
 普通食からしだいに柔らかいものへ、さらにほぼ完全な嚥下食へと母の食事は変わりましたが、ありがたいことに食欲はまったく変わらないのです。完全な嚥下食になっても、それ以前と変わらない量を食べていて、以前のように、私たちも「食べているうちは大丈夫」と合言葉のように言いながら安心していました。
 そうやって1ヶ月半ほど順調に過ごしていて、8月26日の午後の訪問医の定期診察でもどこにも異常はないという診断でした。じっさい、その日の夕食もいつものようにテーブルに座って、用意した食事はあっという間に完食でした。食後の口腔清掃、痰の吸引も終え、眠りにつきました。体温も血中酸素濃度にも異常がないことは午前2時くらいまで確認していました。
 午前4時ころ、妻が血中酸素濃度をうまく計れないと言うので私が計り直しを始めたのですが、その時には呼吸回数がだいぶ減っていました。脈拍も弱く、血中酸素濃度もまったく計れない状態になりました。それから3分ほどで呼吸も脈拍も止まってしまいました。妻が気づいてから15分くらいの間に母は息を引き取りました。ほんとうに静かに、深い眠りからいっそう深い眠りに静かに入っていくようでした。
 直前までその時点でのベストな健康状態を維持しながらふっと消えるように逝ってしまう様子は、母に与えられた命のどんな一滴も余さずに使い切ってこの世を去っていったように思えました。与えられた生をしっかりと生ききったのです。母の死に顔は「もうやり残したことはない」、「言い残すこともなにひとつない」と言いたげな満足げな表情でした。妻と私は慌てふためき悲しんでもいましたが、「おばあちゃんはすごいな」、「ほんとすごいね」と声をかけるばかりで、どんなに褒めても褒め足りない思いで母の死に立ち会っていました。


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 19歳で洗礼を受けた母は強い信仰を抱き続け、老いて体が不自由になっても教会へ行くことをいつも楽しみにしていました。しかし、年々教会へ行ける日は少なくなり、5月や10月の気候の良い日を選んで年2回ぐらいに減ってしまいました。
 昨年は5月20日に教会へ行きましたが、その一度だけで終わってしまいました。今年も「5月の天気のいい日に教会に行こうね」と話していたのですが、とうとうその願いは叶わないことになってしまいました。教会に行けなくなった母は、それなら直接神様のもとへ行こうと私たちの前から去っていったように思えます。あの本当に満足そうな死に顔は、神様のもとへ行けたという満足感もあるのではないかと思えるのです。命を生ききったように。母はその信仰をも全うしたのだと思います。子どもたちは、その母のいちずな信仰を称賛するばかりです。


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 母は入退院を繰り返しましたが、あるとき、看護士さんが「松下さんが入院すると病棟全体が緊張するのよ」と話されて、本当にそうだろうなと思いました。100歳をとうに過ぎた高齢者が救急車で運ばれてきたら緊張するのは当然です。なにしろ、私たち家族ですら「もう家には戻ってこれないのでは」と思いながら送り出しているのですから。
 いつも入院後の経過は順調でだいたい一週間ほどで退院してきます。帰ってこれないのではという思いをしていたこともあってなおさら喜ばしい思いで母を家に迎えることになります。入退院を繰り返すたびに、その嬉しい思いはどんどん強くなります。今度入院したら本当に戻ってこれないかもしれない、そう思うと家に帰ってきた母と一緒に暮らすこと、母の世話ができることがとても嬉しいのです。
 もちろん介護はたいへんなのですが、少しずつその辛い気持ちに介護する喜びのような気持ちが勝るようになってきました。介護の苦労、辛さににときとして感情的になることありましたが、それも急激に減ってきて、私たちは満足感のような喜びを見つけられるようになってきました。それに加えて、すっかり無口になった母ですが、世話をする私たちやヘルパーさんに「ありがとう」と言うのです。ほとんど話さなくなった母が最後まで残していた言葉が「ありがとう」でした。その言葉が、私たちの喜びの気持ちをいっそう強いものにしてくれました。
 とくに、6月から7月にかけての3度の入院がすべて高齢のための症状によるものと分かってからは、母と暮らす一日一日がとても貴重なものに思えるのでした。母を抱き上げて車椅子に座らせること、衣服を着替えさせること、あれこれ考えながら嚥下食を用意すること、テーブルに着いた母に食事の世話をすること、そのひとつひとつのどれもが欠かせない母との時間となりました。そんな時です。朝日新聞の短歌投稿欄に篠原めぐみさんという人の次のような短歌が選ばれていました。
  
  ありがとうごめんなさいと介護するもしかしてこれ黄金の日々

 切なくなるほど愛おしい母との時間は、ほんとうに「黄金の日々」なのだと思いました。
 しかし、私たちがそんな思いを抱くようになったのは今年に入ってからです。長い長い介護の年月を経て、母が115歳の誕生日を迎えるころになって私たちはようやくそんな喜びを見つけたのです。もし母が114歳で亡くなっていたら、私たちは「介護はたいへんだった」という思いだけで終わっていたでしょう。命と命が寄り添って生きていくことのかけがえのない大切さを子どもたちに教えるために、母は115年と5ヶ月の人生を生ききったのではないかとも思えるのです。
 あの満足気な死に顔には「こんなに時間がかかったけれど、何とか気づいてくれた」という親の思いが顕われていたのではないか、そんな気がします。ほんとうにありがたいことに、母は「教え諭す親」をも生ききったのだと思います。

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 母の前夜式、告別式は多くの会葬者にお集まりいただき、ぶじに終わりました。母が生前に自分の葬儀について希望を書き残していて、それに沿って讃美歌や聖歌が歌われました。また、「式は、三女の順子の奏楽で」と遺言のように言っていたので、妻がパイプオルガンの奏楽を担当して母を送ることができました。


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長寿

115歳は人生の先輩です。昔のお写真も拝見させていただきました。本当にお疲れさまでした。

Re: 長寿

> 115歳は人生の先輩です。昔のお写真も拝見させていただきました。本当にお疲れさまでした。

ありがとうございます。
長い介護でしたが、「ああすればよかった、こうすればよかった」
と思うことがほとんどないことが、私たちには救いです。

No title

お母様の歴史を振り返る数々の写真を見ながら
「与えられた命のどんな一滴も余さずに使い切ってこの世を去っていったように思えました」という小野寺さんの言葉が胸に深く残りました

人生を生ききるなんて、そうそう出来ることではないけれど、そのサマをお母様が見事にみせられたことで、多くの人たちに悲しくはあれ、あたたかい気持ちをもたせてくれたのではないかなと思います

イオちゃんと映ってる写真もいいですね
今頃は空の上でふたり会えているでしょうか(´ー`)
「黄金の日々」の記憶は永遠に・・
本当に素晴らしい生を私まで感じさせていただき
感謝の気持ちでいっぱいになりました

合掌

Re: No title

> お母様の歴史を振り返る数々の写真を見ながら
> 「与えられた命のどんな一滴も余さずに使い切ってこの世を去っていったように思えました」という小野寺さんの言葉が胸に深く残りました
>
> 人生を生ききるなんて、そうそう出来ることではないけれど、そのサマをお母様が見事にみせられたことで、多くの人たちに悲しくはあれ、あたたかい気持ちをもたせてくれたのではないかなと思います
>
> イオちゃんと映ってる写真もいいですね
> 今頃は空の上でふたり会えているでしょうか(´ー`)
> 「黄金の日々」の記憶は永遠に・・
> 本当に素晴らしい生を私まで感じさせていただき
> 感謝の気持ちでいっぱいになりました
>
> 合掌

暖かいお言葉、身にしみます。いつもありがとうございます。きっと至らないことも多かったに違いありませんが、故人の最後の日々を苦しむことや不平も不満もまったくなく平穏に過ごせたこと、ほんとうにほっとしています。
今は、義母の部屋に写真と骨壺をおいてもう少し一緒にすごそうと思っています。
正直なところ、イオと義母がいなくなって心がすっからかんとなったようで、すこしふわふわの感じの暮らしが続いています。時間に身を委ねるばかりですも

No title

115歳、立派に人生を全うされましたね
ご家族様共々お疲れ様でした
お義母様のように最後まで優しい家族とともに過ごせたこと
理想ですね
今頃はイオちゃんとお空の上で一緒なのかなあ

Re: No title

> 115歳、立派に人生を全うされましたね
> ご家族様共々お疲れ様でした
> お義母様のように最後まで優しい家族とともに過ごせたこと
> 理想ですね
> 今頃はイオちゃんとお空の上で一緒なのかなあ


ありがとうございます。
義母は、イオの前にいたホシを自分の部屋にはけっしていれなかったのですが、子犬だったイオはいくらしかられても義母の部屋に飛び込んでいくので根負けして出入りをすっかり認めてしまいました。そんなことを思い出します。
ホシは一度しかられたら二度と同じようなことをしない犬で、ホシは絶対に諦めないタイプでした。
義母もホシもイオも思い出ばかりになってしまいました………。
プロフィール

小野寺秀也

Author:小野寺秀也
山歩き、アユ釣り、ヤマメ釣り、山菜採り、茸狩り、花いじり、読書、美術館巡り、街歩き、などが趣味。加えて、犬と遊ぶこと、ぼんやりしているのも趣味の一つです。最近は、原発事故による放射能汚染で魚、山菜、茸は諦めています。

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