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犬といた日々――シーズーぎらひ(イオ)

  「嫌ひ」と旧仮名遣いで表記すると、少し上等そうな感情が漂うように見える、というのは私だけの感じ方だろうか。たとえば、こんな句がある。

  虚子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帯
  杉田久女 [1]
     
 高浜虚子や長谷川かな女を「嫌ひ」と断じる勁い情に驚くばかりである。現代歌人では、こうである。

 さくらさくら我の嫌ひな日本語は「美しい日本語」

                        大口玲子 [2]

 もっとも、俳句や短歌の作家には現代でも旧仮名遣いの人が多い。短詩系文学では、日本語が長い歴史をかけて培ってきた言語表現における繊細な差異を大事にするためではないか、と思う。それこそ、「美しい日本語」は新仮名遣いにはないと信じている、に違いない [3]。
  もちろん、現代詩だってこの通り。

  〈つらい詩なんぞ読みたくないよ〉
  と男たちはいふ
  〈つらい詩を読んで
  ああこの人でも生きてゐる と思ふと
  じぶんも生きられる〉
  と女たちはいふ
  さう もっと幸せな詩を書きたいのだが
  わたし自身も
  “ごくふつうに生きてゐる”ものだから……

              吉原幸子「同病」部分 [4]

 そして、私のなかの旧仮名遣いの極北に座しているのは、この詩である。

  てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた

    安西冬衛「春」全文 [5]

 私は新仮名遣いだけで生きてきたし、旧仮名遣いのルールもよく知らず、物真似のように使ってみるだけである。そのせいで、なんとなく「嫌ひ」という仮名遣いをしてみたいと思っただけで、これだけのエクスキューズが必要だったということである。

 「 はなし」は、単に、我が家の牝犬「イオ」がシーズー犬を嫌っているらしい、というだけのことである。

 成犬になったイオは、気が強くて、自分と同等以上の体格の犬には、じつに挑戦的なのである。相手が気に入った牡犬(いまだにその基準が理解できないが)なら愛想がよいのだが、牝犬で仲が良くなったのは、大型犬では、ラブラド-ルとゴールデンのレトリーバーの二匹、それに中型犬のセッター(犬種はよく分からない)の三匹くらいである。それも、三匹とも圧倒的に穏和な性格で、しかもよく躾けられているためなのである。イオの挑戦を適当にあしらってくれているうちに仲良くなれたというのが実際のことで、とくにイオを褒めようがないのである。
 一方、チワワ、マルチーズ、トイプードルなどの小型犬には敵意を見せない。 隣家のミニチュアダックスは同じ牝なのに仲が良くて、スピード感がまったく違うので本格的な(イオ好みの)遊びにはならないが、出会えば必ず走り寄って、からまっている。
 とくにお気に入りの小型犬は、ジャック・ラッセル・テリアである。「軽の車体にF1のエンジンを積んでいる」と形容されるこの犬種は、疲れ知らずで駆け回ることで知られている。
 「ハッピー」というやはり牝のジャック・ラッセル・テリアがいて、半年間ほど朝の散歩で出会う期間があった。
 まだ薄暗い早朝、いわゆる「かわたれどき」であれば、二匹が出会う或る広場には誰もやってこないので、二匹は思いっきり暴れ回ることができる。

イオ3-2
ハッピーとイオ:まだ夜が明けない広場で、雪を蹴散らして飛び回って、ひと休み。 (2009/1/14)

 ハッピーとイオの遊びは激しい。全速力で駆け回り、カーブを切ろうとして勢い余って3回転ほど転がり、その上にもう一匹がジャンプして飛び込んだりする。イオは、自分が転げた時には、ひっくり返ったまま、飛び込んでくるハッピーを両前肢で抱き留めて、もう1回転がって、押さえ込もうとする。二匹は、抱きあったまま、転げ回っているように見える。
 ある雨上がりの朝には、そんな遊びで、当然ながら全身泥だらけになる。二匹の飼い主は、それに懲りて、リードを放す条件を厳しくすることになる。
 
 ジャック・ラッセル・テリアは特別で、ほかの小型犬には鼻面を付き合わせる程度のつき合いが普通である。しゅっちゅう顔を合わせる隣家のミニチュア・ダックスフントの「ハリー」(牝犬なのになぜかこの名)を、ときどきイオ流の遊びに誘うこともあるのだが、普通の小型犬はそんな遊びにはのってこないのである。

 近所に、優しそうなおじいさんと一緒に散歩する牡のシーズー犬がいる。年齢は、イオの1才ほど年長らしい。幼いイオも予防注射が住んで、外出ができるようになった頃、町内でしばしば出会って、挨拶をするようになっていた。
   跳んだり跳ねたり、全速力で体当たりをするような、ということは決してなくて、おとなしく品のよいそのシーズーとは、本当に挨拶程度だけのつき合いなのである。
 おじいさんとシーズー犬の散歩の時間はアト・ランダムらしく、朝晩ほぼ決まった時間に出かけるイオとは、月一,二回ほどしか町内で出会うことはなかった。
 イオが四才になったころ、広瀬川の堤防で出会った。いつものように飼い主同士は挨拶をして、犬同志も挨拶をするだろうと互いに近寄っていったとき、イオが突然威嚇したのである。シーズー犬も驚いたろうが、おじいさんはもっと驚いて、言葉を交わす間もなく、シーズー犬を引っ張って駆けて(けっして早くはなかったが)行ってしまった。


 イオがその小型犬を威嚇した理由がわからないまま時は過ぎた。シーズー犬と出会うと、当初はおじいさんはかなりの警戒心を示していたのだが、二匹は何ごともなかったごとく、以前と同じように挨拶を交わすのだった。
 ところが、それから二年後くらいに、すっかり油断していた時期に、イオはそのシーズー犬をふたたび威嚇した。そしてまた、元に戻り、さらに三年後、もう一度威嚇したのである。このまったく気まぐれのようなイオの威嚇行動の理由は見当もつかないままであった。
 ごく最近、同じ町内の若い奥さん(たぶん)が、やや大ぶりのシーズー犬を連れて散歩をするようになった。その若いシーズー犬は、夕方のほぼ決まった時間に我が家の庭の前を通り、イオの夕方時の散歩時間と重なるので、しばしば出会うのであった。
 四度目か五度目の出会いの時、おじいさんのシーズー犬にやったように突然威嚇したのである。若い奥さんはまったくたじろぐことがなく(少し救われた)、その後も平気でそばに寄ってきてくれたが、一ヶ月後くらいにまた、少しおとなしめであったが、威嚇した。

 小型犬の中で、なぜシーズー犬ばかり威嚇するのだろう、と考えていたとき、シーズー犬だからこそ威張って見せたのではないかと推測できそうなことがらに思い至った。
 それはやはり、初めての予防注射を終えて、遠くまで散歩に出かけられるようになったイオの生後四ヶ月の時まで遡る


イオ3-1
公園デビュー直前のイオ(予防注射がまだなので)。 ワインを飲もうとしているわけではありません。酒は嫌い。酔っ払いに変身した飼い主も嫌い。コルクの咬みごごちは文句なく好きです。 (2000/12/9)

 広瀬川沿いに「西公園」という公園があって、イオの散歩コースに含まれている。公園デビューしたころ、隻腕のお父さんが連れてくるラッキーという牡の中型犬がいて、毎日のように逢うのだが、まだチビだったイオは遊ぼうと思ってもついていけないのであった。
 そんなときによく遊んでくれたのが、牡のシーズー犬の「マーくん」である。マーくんは、おじいさんの自転車の前籠に乗り、籠の縁に前肢をかけて仁王立ちになり、威風堂々と公園に現れるのであった。
 イオも大きさでは、マーくんを越えていたのだが、さすがに牡の成犬の威厳があって、適当にあしらわれながら遊んでもらっていた。そしてときどきは、イオの体の大きさを持て余しては、イオを威嚇しておとなしくさせるのである。イオがどんどん大きくなっても、マーくんが兄貴ぶって、イオがついて歩くという関係は変わらないのであった。

 イオが2才になったころのある朝、私がイオを前抱きにして、つまり自転車のマーくんと同じ位の高さにして、公園にやってくるマーくんを迎えたことがある。この前抱きだっこがイオの特別のお気に入りになって、それから一年ほどの間、散歩の途中でしばしばせがむようになったのである。とくに、他の犬に出会った後でせがむことが多いのであった。「マーくんの真似して、高いところで威張っているんだね」と妻と笑っていた。
 マーくんよりずっと大きくなったイオは、それでも逆らえないマーくんとの関係に不満を持っていたに違いない。前抱きだっこされて、高いところから見下ろすと、少し威張れる感じがして、その不満を解消していたらしいのである。
 つまり、大げさに言えば、マーくんとの関係で生じる抑圧感情を、町内のシーズー犬にぶつけることで、解消していたのではないかと考えられるのだ。シーズー犬と出会うと、マーくんを思い出し、子分扱いされた自分を思い出し、いや、そんなふうにに順序立てて思い出すことはないだろうが、記憶のなかのマーくんにまとわりついている漠然とした不満のような気分に駆り立てられているのだろう。
 7才ぐらいになると、マーくんは公園にやってこなくなったのだが、イオはほかのシーズー犬を見ては、好ましくない形で思い出しているようなのである。

 残念ながら、自転車の前籠で威風堂々とふんぞり返っていたマーくんの写真は、いくら探しても見つからなかった。

イオ3-3
橋上の一匹と一人。 朝日に背を押されて公園散歩からの帰路。(2011/12/11)

   朝光を走る磨かれた凡な犬  金子兜太 [6]


[1] 『わが愛する俳人 第二集』(有斐閣 1978年) p. 211。
[2] 大口玲子歌集『海量(ハイリャン)/東北(とうほく))(雁書館 2003年) p. 153。
[3] 加藤典洋によれば、旧仮名遣いから新仮名遣いへの転換を厳しい思想的課題として引き受けた文学者もいる。大岡昇平である。加藤典洋(『敗戦後論』(講談社、1997年))の引用からの再引用。
「現代かなづかいは矛盾に満ちた、早産児であった。それは決して国語審議会の連中の発明品ではなく、輪郭は明治三十八年で出来上がっていたものであった。敗戦のどさくさまぎれに充分検討することなく、提出されたものにすぎない。 /(中略)/ 「現代かなづかいは」は批判者の意見を取り入れた改正を加えて、用いるほかはない。わが国が敗戦の結果背負わされた十字架として、未来永劫に荷って行くほかはない。」(強調は筆者)
[4] 『続続吉原幸子詩集』(思潮社 2003年) p. 52。
[5] 安西冬衛『世界名詩集大成 日本II』(平凡社 昭和34年) p. 314。
[6] 『金子兜太集 第一巻』(筑摩書房 平成14年) p. 147。

(2012年2月22日に書いてホームページに掲載していたものをホームページを閉じるにあたり、転載しました)。



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犬といた日々――対抗マーキングとその応用(イオ)

  犬の糞すくひて人はまたあるくかかるリフレインを生活といふ
                          小池光 [1]

 犬はマーキングをするものである。マーキングは切り離せない犬の属性である。切り離すことができなければ、犬の本質と言っても良い。種として分化して以来、犬はそんなふうに生きている。そんなことは当たり前のことだと思っていたのだが、最近は、「オシッコをさせるな」 という張り紙がやたらと多くなったような気がする。都会では犬は(私も)生きにくいのである。
 犬は犬として受け入れる、というのが犬を飼うことだと思っていた。育種の累乗によって愛玩犬として変異の果てまで進んだようなチワワとかトイプードルとかパグのような犬種も、普通にマーキング行為をするだろう、と思う。犬の育種に関わるような人たちが、犬の本性を否定する方向で育種を進めるとは想像しにくい。これは、雑種犬しか飼ったことのない私のただの推量だが。

 私が中学生のときはじめて飼った「クロ」という雑種犬は牡犬で、時代も場所もマーキングを意識するには程遠かった。犬の飼い主もそうでない人も、あちこちで犬がオシッコするのは当たり前のことで、誰も気に留めていなかったのだ。だいたい、ほとんどの犬が放し飼いで、放し飼いの犬のオシッコを気にするなんて不可能なのである。その後に飼った「ホシ」と「イオ」は牝犬なので、放し飼いではないもののマーキングのことはそんなに気にすることはなかった。
 牝犬のマーキングは、牡犬のような縄張り拡大の意図はほとんどなく、自分の生活領域にどんな犬がいるのかの確認が主で、すでにマーキングしてある場所に対抗的にマーキングをしておくという感じなのである。
 イオもまた、マーキングされた場所を確認し、対抗的にマーキングをするのだが、どうもすべてに対抗するわけではないらしい。競争的ポジショニングの牝犬のそれに重点的に対抗するのかもしれない、などと想像してみたりする。しかし、彼女は避妊手術をしているので、いかなる自覚があるのか定かではないが、厳密には牝としての競争関係は喪失しているはずなのだが。

 朝の散歩のときによく出会う「リンちゃん」という牝のラブラドール・レトリーバーというイオのライバル犬がいる。イオは必ず、彼女が直前にしたオシッコに対抗的にオシッコをかけるのである。
 リンちゃんには「ルーク」というシェットランド・シープドッグの牡の同居犬がいて、イオはルークのオシッコにも対抗的にマーキングをすることもないわけではないが、匂いを確認するだけの方が多い。


イオ-2-1
Photo A 「リンちゃん」(中、ラブラド-ル:レトリーバーの牝)と「ルーク」(右、シェットランド・ シープドッグの牡)。「リンちゃん」とイオの微妙な距離。これ以上近づくと、立 ち上がって取っ組み合い、押し合う奇妙なライバル同士。(2005/9/13)

 イオにはマーキングに関してどうしても譲れないことがあるらしい。公園を散歩しているときに多いのだが、木立や繁みの中に強引に入ろうとする。引き止めるのを躊躇するくらい必死なのである。道を歩きながらのときのように、他の犬の匂いを調べるだけ、という雰囲気ではないのだ。
 繁みの中には必ずといっていいほど、ほかの犬のウンチがあるのだ。そこではオシッコをして、さらに周囲の地面を4,5回かきむしるという、いちばん丁寧なマーキングをする。もちろんウンチもまたマーキングの重要な手段であることはわかるが、執着の仕方はオシッコの比ではないのである。
 当然のことながら、イオもまた自分のウンチを重要なマーキングの一つと思っているらしいのである。ウンチをすると、そのまわりの地面を数回かきむしってマーキングも完成する。私がそのウンチを拾うと、急いでその場所の確認に来る。地面に残る臭気を確認して安心するようなのだ。
 ときどき、手にかぶせたポリ袋で、ウンチを受け取ることがある。その時も確認しようとするのだが、何かうろうろと落ち着かないというか、「どうした、どうした」という感じで慌てているように見える。ウンチが空中で消えてしまい、漂う臭気はあるものの、地面にはなんの痕跡もないことが理解出来ないのであろう。

 この執着の強さを見ていて、思いついたことがあった。広い公園のなかで、犬のウンチ掃除をしようとしたら、この執着心は絶対的に役に立つ、効率的にウンチを見つけることができるはずだ、と思ったのだ。公園でウンチ拾いをしてみようとということになった。
 問題点はいくつかあった。朝の散歩が終わり、家で朝食をすませて、いよいよ初めてのウンチ拾いに出かけようとしたのだが、イオがいうことを聞かない。玄関を出るものの道に出ようとしない。
 実のところ、この行動はいつものことなのである。朝、晩の散歩は習慣となっていて、しかもウンチやオシッコの機会でもあるので、私を急かしても出かけるのだが、そのほかの時間帯の外出には、車で出かける以外は認めようとしないのだ。車で山に行く、知らない町を探索する、そんなことしか想像していないのであろう。
 朝と晩の散歩に公園のウンチ拾いを含めるとなると、長時間の散歩となって少し逡巡してしまう。退職したので時間は十分にあるとはいうものの、散歩には散歩にふさわしい時間というものがあるだろう、と思うのだがしかたがない。

 もう一つの問題は、どうやってウンチを拾うか、ということである。イオのウンチは、スーパーでもらう小さなポリ袋に手を突っ込み、直接手で受けたり、拾ったりして、ポリ袋を裏返して結び、そして小さな密閉容器にしまう、という方法で拾う。
 しかし、知らない犬のウンチを同じ方法でというのは、なんとなく戸惑う。息子や娘が赤ん坊のとき、そのウンチの世話が何でもないことに気がついたときの軽い驚きのようなものを、思い出した。つまり、イオのウンチは何でもないのに、他の犬のはちょっと、という感じなのである。
 たまたまなにかのおまけでもらった小さなバッグ型のポーチがあって、黒いビニール袋がセットされているものがあった。このエチケット袋(と言うらしい)は少しもったいなくて使わないでいたのだが、黒いビニール袋というのは透明なポリ袋と比べれば、視覚的な遮断性は高いのだ。実に感覚的でつまらないことだが、こんな気分的なことでも、少しは気が休まるのであった。他の犬のウンチはこの袋で、ということにした。

 張り切って(というほどではないが)始めたのだが、めざましい成果というわけにはいかなかった。意外にウンチが少ないのである。たしかに散歩途中で見かけるウンチもあり、世間では、放置されたウンチについて大いなる注意喚起をする人たちが、公園は犬のウンチだらけかのような印象を与えるべく頑張っていると思っていたのに、これはどうしたことだろう、というくらい少ないのだ。
 はじめこそ、1度に3個ほど拾うこともあったが、たいていは1個ぐらいで、まったく見つからない日もかなりある。拍子抜けである。
 たとえばこういうことがある。毎日、ほとんど同じあたりで見つかる。これが4日ほど続く。後はしばらくなくなって、また同じようなことが起きる。同じ時間帯に散歩をする犬は、同じ場所でウンチをする確率が高い、ということから見ると、ウンチを拾わずに行く人は、どうもこの公園では一人か二人だけのようなのである。この公園に犬連れで集まる人はかなりいる。早朝に出会うのは、4,5人だが、昼前に通りかかると、集会を開いているのかと思うほど多い。それなのに、ウンチを放置する人の割合は想像を絶するほど低い。


イオ-2-2
Photo B なんか匂うが、ウンチじゃない。 (2003/8/12)

 それでも、私たちの印象は違う。結構な数の人が放置しているのではないか、と思っていた。しかし、冷静に考えてみれば、思い違いをするのは当然である。たとえば、たった一人の人が放置しても、三日たてば同じ付近に犬のウンチが三つも転がっていることになる(私のように他の犬のウンチを拾う人がいなければ、ということだが)。その人が、別の時間帯、別のコ-スを歩けば、そんな場所がもう一つ増える。大雨も降らずに10日もたてば、この公園には3カ所も犬の糞がまとまって放置される場所ができることになる。
 さて、その公園を歩き、そのうちの2カ所くらいに遭遇したとしたら、「この公園には犬の糞を放置する人がいっぱいいる」という印象を受けるだろうと思う。私だって絶対にそう思う。そうして、犬好きの私には本当に迷惑な話だ、と怒ることになるだろう。
 犬のウンチを放置する飼い主はほとんどいない、という結論をどう処理すればいいのだろう。ほとんどいないが少しはいるという飼い主のために、膨大な数の飼い主が不名誉を蒙っているのである。犬好きは、この不名誉に耐えねばならない、というのが結論であろうか。


イオ-2-3
Photo C 妻「もしかしてウンチに顔をくっつけてない?」 (2004/5/2)

 公園でのウンチ拾いを始めてから、ごく自然に散歩途中で通る町内の路上のウンチも拾うようになる。ところが、平均すると公園よりも拾うウンチが多いのである。たまに、イオのウンチより大きく、結構な大型犬のウンチを拾うこともあるけれど、小さいウンチがほとんどである。黒っぽい、ねっとりした感じの小さなウンチを2,3個拾うという日が続いたが、近所の人にそれは猫のウンチだと教えられた。それで得心がいった。町内の野良猫分布と小さなウンチの分布はほぼ一致していたのである。
 公園にもおよそ12、3匹の野良猫がいるが、猫のウンチと思えるものはほとんど見かけない。たぶん、イオが無視していることと、飼い犬と違って野良猫はウンチをする場所を人が通れない薮のなかにでも定めているためではないかと思う。

 私の住むところにも町内会があって、会報が定期的に届けられる。そこでは犬の糞が放置されていることがよく話題になっているが、猫のウンチが話題となっているのを見た記憶がない。小型犬のウンチくらいのサイズの猫のウンチが問題ないはずがないと思うのだが、本当のところはよくわからない。
 町内会報に書いてあるということは、もちろんなにかの手立てを考える必要があるということだと思う。しかし、拾って歩く経験から、明らかに猫の糞の方が多いのである。事実誤認があっては正しい手立てを考えることは難しいだろうと思うと、私は余計なお節介をしているのではないか、という気になる。正しい事実認識のためには、事実をそのままにしておく方が良いのではないかと思ったりするのである。だからといって、猫の糞だけ拾わないというのは、狭量な差別心のようで、悩ましいのである。

  ビニールのふくろにとりて犬の糞もちかえる人はこころいたまし

                                 小池光 [2]


  [1] 『現代短歌文庫65 続々 小池光歌集』(砂子屋書房 2008年) p. 35。
  [2] 小池光『歌集 草の庭』(砂子屋書房 1995年) p. 178。

(2011年9月10日に書いてホームページに掲載していたものをホームページを閉じるにあたり、転載しました)。



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犬といた日々――高所恐怖症(ホシ)

 1985(昭和60)年の8月初め、妻、息子(中1)、娘(小5)、ホシ(1歳半)と大東岳の南麓を流れる大行沢で2泊のキャンプに行った時のことである。私のイワナ釣りと大東岳の登山、それに子どもたちの夏休みイベントをいっぺんに片づけようというわけである 。
 ホシにとっては、残念ながら受難のイべントだったのであるが。


ホシ-2-0
Photo A 大東岳遠景(仙台市秋保、長袋地区から)。  (2010/5/8)

 大東岳は、奥羽山地の蔵王山群の北に位置し、小東岳、南面白山、面白山などと山群を形成している標高1365.8mの山である。仙台から小1時間で登山口に行ける手頃な山である。私の場合は、若い頃はイワナ釣りと登山の山であり、仕事が忙しくなった時期には大行沢沿いの往復3,4時間のトレッキング(散歩?)の場所であり、最近では山菜や茸狩りの山でもある。
 その頃は、もうそろそろイワナ釣りをやめようかと思っていた時分ではあったが、イワナ釣りで通い慣れていた大行沢にはテントを張るのに最適な場所が何カ所かあったのである。
 当時の私は自家用車をまだ持っていなくて、原付バイクで近郊の山や川に出かけていた。原付バイクは立派な道路の長距離にはむいていないが、でこぼこで細い山道には便利だったのである。
 キャンプ用の大きな荷物と家族を仙台駅発二口温泉行きのバスに乗せ、私は原付バイクの後ろの竹籠 [1] にホシを乗せてバスを追いかけるのである。ホシは涼しそうな顔で籠のなかでに坐っている。何度か乗っているのだが、いつも興奮もしなければ、恐がりもしない。いつも淡々とした表情なのである。
 バスの実際の終点は、二口温泉の先、大東岳の登山口のある本小屋となっている。大行沢沿いの道は、本小屋から2km程は旧林道であり、今は無理だが、当時は小さな車であればなんとか入れたのである。ホシと家族は本小屋から歩き、私はバイクで2往復して荷物を運んだ。林道の終点からはほんの少しの距離で、テントを張る。


ホシ-2-1
Photo B 水は嫌い。家族の水遊びが恨めしいホシ。 恐怖はこの後に。(1985年8月)

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Photo C 大行沢で泳ぎの特訓を受けるホシ。これで水嫌いは決定的に。(1985年8月)

 水に入りたがらないホシを抱いて浅いところに立たせる、ということから始めて、少しずつ足が届かないところに放すという段取りである。足が届けば何でもないが、腹に水がつくあたりでパニックが始まる。
 それでも、ホシに泳ぎを教える必要は全くなくて、深みで放せば、水に入れた瞬間はバシャバシャする(Photo C)が、すぐに岸に向かって普通に泳ぐのであった。泳ぎは本能的に上手なのである。しかし、自分からは決して水に入ろうとはしない。最後には林を突っ切り、逃亡してしまった。結局は、水嫌いを助長しただけの「訓練」なのであった。

 ファミリーキャンプらしく、夕食後は花火遊びである。。谷川の水音が下の方から聞こえるだけの、真っ暗なぶな林の中の線香花火はいつもより大きく輝くように見え、子供より妻のほうが夢中になる。ホシは花火には関心がないふりをしているが、本当は少し苦手なのだ。
 ホシが興奮し始めたのは、4人と1匹が狭いテントの中で並んで寝ようとしているときであった。当時のホシは、まだ庭で暮らしていて、たまに家に上げてもらうだけだったからである(その後まもなく、庭の犬小屋を使うことなく、フルタイムの家犬になった)。
 ホシの興奮を静め、たった一人で泊まった山小屋経験から、「人間世界の出すノイズのない夜の山は、遠くや近くでなにかの動物の移動する音が木々をかすめる風の音に混じって、じつに賑やかなのだ」などと子どもたちに話して聞かせたものの、そこでは渓流の音しか聞こえないのだった。
 みんなが聞こえない音を聞こうと耳を澄ませているとき、ホシは体を起こし、耳を立て、低くうなり声を少し上げたのである。外に出たがるので、テントを開けると、入口まで出て、ブナの原生林の急斜面を見上げて、ときどき低くうなる。
 私たちは、少しの興味とそれより大きい恐怖に押されて、テントから顔を出してホシの見つめる方向を見るのだが、もちろん真っ暗で何も見えない。耳を澄ましても、あいかわらず、谷川の音ばかりで何も聞こえない。
 じわじわと増えていく不気味さに私たちは声も出せなかったが、ホシはフッと緊張感を解くと、さっさとテントに入って横になってしまった。何があったのかわからないまま、私たちも少しは安心して眠ることにしたのだが、妻はとっくに熟睡中なのであった。

 ホシは性格の穏和な犬である。「気ぃつかい」で、あまり犬らしくないのである。基本的なしつけをするときでも、すぐに身につける犬だった。眠りに入りかけの頭でホシのことを考えていたとき、さっきの緊張感漂う警戒の姿勢は、昼の水泳訓練への仕返しではなかったのか、などと思ってしまい、思わず寝ているホシの方を見ると、私の体の動きに反応して、ホシもこっちを見上げているのだった。

 次の日は大東岳登山だ。朝と昼の弁当を持って、夜明けとともに出発である。いったん本小屋の登山口まで下り(実際はほとんど平坦だが)、立石沢にそったコースを上る。頂上直下に鼻こすり坂という急坂があるだけのこのコースを登り、「弥吉ころばし」の急坂から大行沢沿いの道を降りのコースとするのが普通である(私の場合は)。
 家族の荷物を背負う私だけが、ヒーヒーいっているだけで、4才くらいから山に来ている(最初は私の背中の上でではあるが)息子も娘も、ホシも妻(ゆっくりの長距離に強い)も軽快に路程をこなす。
 みんなの前後を飛び回りながら快適に飛ばしていたホシも、鼻こすり坂をすぎて頂上台地に着く頃には暑さにばてて、走って前に飛び出しては、溝状にえぐれた登山道にぴったりと伏せて、腹を冷やしているのである。私たちが通りすぎてもしばらくはその姿勢を保ち、ふたたび私たちを追い越して、先で体を冷やしながら私たちを待っているのである。


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大東岳周回コース  (地図のベース:「プロアトラスSV4」)

 頂上から少し降り、台地の南端からの蔵王方向の眺望をゆっくり楽しんだ後、弥吉ころばしと呼ばれる急坂を下る。沢に出るまで一挙に下ろうということになった。この決断がホシの悲劇の始まりであった。
 この急坂には前を向いてそのまま下れないような高い段差がいくつもあって、子供や妻に指図したり手を貸したりで忙しかった私は、軽快に走り下っているように見えるホシに気を配る余裕はなかったのだ。犬としては長時間水分補給がなかったのである。
 弥吉ころばしの急坂が終わって、道は「がくり沢」 [2] の左岸に直角にぶつる。水音か水の匂いかで谷川の水を感じたホシは、渇きに負け、水に向かって突進したのだ。薮を分ける音に続いて「キャゥン」というような悲鳴一つを残して、何の音もしなくなったのである。崖下へ転落したのだ。
 崖を降りることもできない私たちは、急いで沢の出会いまで登山道を下った。長く感じたが、たぶん5,6分で沢に出会い、ザックを下ろし、子どもたちをその場で待たせて、沢を登った。さいわい小さな沢で水も少なくて歩きやすいのだが、底は岩盤で、ここに叩き落ちたのかと思うと、気が気ではない。
 現場下に着くと、ホシが駆け寄ってきた。抱きとめて、体を調べてみたが、どこにも怪我はなさそうで、ひとまずはほっとした。現場から一歩も動かずにいたのは、崖上に私たちがいるものと思って、なんとか戻ろうとしていたためらしい。 


ホシ-2-4
Photo D 「遭難」現場のがくり沢(ケヤキ沢?)。登山道は右手より直角に沢の崖上まで来て左折し、この沢の左岸を、手前、樋の沢に向かって下る。 (2007/8/11)

 みんなで心配したけれども、これはこれで無事に終わったのだと私も家族も思っていた。ホシも落下する前と変わらず、愉しそうに山道を歩いてついてきたのである。
 その晩はテントでの2泊目で、昨晩のようにホシの警戒行動に脅かされることもなく、みんな熟睡できた。翌朝は、またイワナをたくさん釣って、そのなかから焼き魚に適当なサイズを3匹選び、留守番をしているおばあちゃんへのお土産に帰ってきた。こうして夏休みのキャンプは楽しく終わったのだった。そのはずであった。

 家に帰れば、ホシもいつもの暮らしに戻る。そこには私といっしょに出かける朝と夕方の散歩もある。

 私の家は仙台の市内を流れる広瀬川の河畔にある。広瀬川は仙台城趾のある青葉山丘陵を切り裂くように東流し、市街地に入るとすぐ南に流れを変え、竜の口渓谷を合わせる。つまり、広瀬川と竜の口渓谷に囲まれた天然要塞に伊達政宗は居城を構えたわけである。
 広瀬川を境とすれば、私の家は仙台城趾側に位置している。したがって、たいていの外出は広瀬川にかかる4つの橋(どの橋を通っても仙台城趾と周辺の東北大学キャンパスに通じている)のどれか一つを通ることになる。
 ホシと私の散歩は、仙台城趾周辺から橋を一つ渡り、川向こうの大きな公園を通り、別の橋を渡って帰ってくることが多い。それ以外のバリエーションでも、どれか二つの橋を渡って周回するということがほとんどなのだ。

 キャンプから帰ってきた翌朝、いつものように散歩に出た。その日は一番近い橋を通って川向こうの公園に行こうとしたのだが、橋を歩き始めるとすぐホシは立ち止まってしまった。いくら声をかけても動こうとしない。強引に引っ張ろうとすると、足を突っ張って抵抗するのである。
 朝早い通行人が、ホシと私を見て笑って過ぎてゆく。少し恥ずかしいこともあって、そのまま引き返し、家の近くの堤防を少し歩いて、その日の散歩は終わりとした。
 それからの散歩もまったく同じであった。どの橋を通っても、3分の1も進まないうちに止まってしまって、前に進まないのである。一つの橋は歩道が4,5mほどある大きな橋で、ある時、その歩道の車道寄りを歩くと端の中頃まで達してから抵抗が始まったのである。
 ホシは橋の下、川や川原が見えると立ちすくんでしまう、ということにやっと気がついた。あの崖からの転落の恐怖がよみがえり、動けなくなるということらしい。高所恐怖症なのである。

 高所恐怖症のリハビリテーションが始まった、と書くと大げさだが、要するに餌で釣ってできるだけ橋の中央に誘い出すというごくごく単純な作戦である。さいわい、ホシは食べることに異常な意欲を持っている。好き嫌いははっきりしているが、食欲には絶対に勝てないタイプの犬である [3]。精神の病に食餌療法が効くのだ(人間だったら大発見だったのに)。
 1週間ほどで広い歩道の車道側であれば、その橋を渡ることができるようになった。それでも、欄干側に近づいたりするとやはり歩けなくなる。手を変え品を変え、とはいうものの、変えたのは餌の種類だけだが、1ヶ月半ほどで喜んで渡るようではないが、抵抗はしないでどの橋も渡れるようになった。
 薬や化粧品と同じように、高価な餌ほどよく効いた、というのはどうしたって思い過ごしだけれども、散歩ではたっぷりと、しかも高価な純粋な肉系の餌をもらえるというホシの信念からの脱却、新しいリハビリテーションにはもっともっと長い時間がかかったのだった。



〔1〕 当時の私は、道具の多い鮎の友釣りでは釣り道具を入れた竹籠をかついで川に通っていた。行商人が担ぐような角形の大きなもので、上面には道具がこぼれないように手編みの口絞りネットを張ってあり、15~20kg程度の犬なら十分におさまるのである。
〔2〕 事故現場から7,8分下って沢に出た付近に「がくり沢」の表示があった(Photo E)ので、この沢をがくり沢だと思いこんでいたが、ある登山案内では「ケヤキ沢」と呼んでいる。詳細はわからないが、がくり沢はケヤキ沢の支沢の可能性もある。

ホシ-2-5
Photo E 「遭難」現場から7,8分下ったところにあった「がくり沢」の案内表示。ある登山案内では「ケヤキ沢」とあって、その関係は不明。  (2007/8/11)
〔3〕 これは、ずっと後のことだが、娘が友人たちと広瀬川の川原で芋煮会(地方伝統の秋のピクニック。肉と里芋の入った鍋を囲む行事)をしたとき、、ホシも同伴してごちそうになった。ほかにも大勢のグループがいて、それぞれがホシに鍋をふるまったのである。食べ過ぎたホシは薮のなかで頂いたものを戻して、ふたたび愛想を振りまきながら貰い続けた、と娘があきれていたことがあった。そんな犬である。

(2011年9月7日に書いてホームページに掲載していたものをホームページを閉じるにあたり、転載しました)。



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犬といた日々――パトロールの日々(クロ)――

ふはふはと歩みておれば地べたより老犬クロに一瞥されぬ
               竹山広 [1]

 クロと私は、私が14才から16才までの3年間しか同じ家で暮らしていない。17才になってすぐ、私は故郷を離れ、仙台で暮らすようになる。クロは、母に従って次兄の家に引っ越した。
 3年間は確かに私が飼い主だったけれども、その後は次兄が飼い主となったのである。誰が飼い主かなどという取り決めや話はまったくなかったのだけれども、家族の誰もが自然にそんなふうに理解していていた。

 私がたまに帰郷すると、クロと私はいつもひっついていて、クロにしてみれば、非日常的な日々ということになる。帰郷してすぐの私の仕事は、たいていの場合、長毛だったクロのブラッシングとシャンプーが普通だった。
 どちらも嫌いなクロは、開放されると家の前の畑を縦横無尽に、つまり畑の作物など頓着せず、濡れた体で全力で走り回り、ころげまわるのであった。私の家族は農家ではないので、当然ながら人様の畑を荒らしているのだが、持ち主は土まみれになったクロを見て笑っているのであった。私は戦々恐々としているのだったが。

 私の不在の時がクロにとって普通の毎日で、それを私が見ることはもちろんできなかったのである。
 これは母や兄たち、故郷の知人たちの話の総合である。

 クロは朝夕二度、餌をもらう(これは、その後のホシもイオも同じである)。朝食を終えると、次兄の家族は母を残して家を出る。次兄夫婦は仕事を持っていたし、二人の甥はそれぞれ小学校や幼稚園に出かける。
 母だけになった家で、食後の30分から1時間程度を過ごしたクロもまた、どこかに勤務先があるが如く毎日次兄宅(地図ポイント1)から出かけるのだそうである(ここまでは母の話)。

 クロがその1日をどの道をどう歩いたかはじつはよくわからない。クロが生きていた町(私も16才まで暮らした町だが)の地図を掲げ、クロが歩いたであろう道を示しているが、これはあくまで目的地のある人間が歩くであろうコースであって、犬が同じように歩くという根拠はとくにないのである。

 まずはじめに、クロが目撃されるのは地図ポイント2の中学校である。中学校の玄関を入り、コンクリート床に寝そべっているのだそうである。
 当時、この町の中学校には長兄が教頭として勤めていて、その長兄への表敬訪問らしいのである。クロは長兄と一緒に暮らしたことはないのだが、家族の一人と認めていたのだろう。


クロ2-1
クロのパトロールコース(地図のベース:「プロアトラスSV4」)

 町中の中学生に声を掛けられ、撫でて貰いなどしているうちに、仕事の合間を見つけて現れた長兄に声をかけてもらうまで中学校の玄関に居続け、長兄との挨拶が終われば姿を消すのである。ここまでは長兄の話。

 次に姿を見せるのが、地図ポイント3の町立病院である。やはり、玄関の三和土に寝そべり、町中の病人の挨拶を受けているのだ。ここには義姉(次兄の妻)が事務職として勤めていて、玄関近くに事務室があるので、義姉がクロに気付いて声をかけてくれるまではそんなに時間がかからず、中学校ほどは長居ではなかったらしい。義姉の話である。

 病院を出たクロは、地図ポイント4の町役場に現れる。ここには次兄が勤めていた。玄関で寝ていたり、うろうろしていたらしいが、やはり次兄が声をかければまもなく姿を消すのだそうである。しかし、玄関から離れた場所にデスクがあるうえに、町中のいろんなところに出かける職種の次兄が、クロに声を掛けられるチャンスは多くなく、そんなときには1時間ほどで姿が見えなくなったということである(次兄と役場の職員の証言)。
この後の行動は、突き合わせが十分ではないので、町役場を出た後の行動かどうかは直接の証拠はない。ここまでの行動は週日のほぼ毎日で、この後の行動もかなりの頻度で目撃されているので、やはり町役場の後の行動であったろう。

 町役場を出て北への道を(人間の足で)15分ほど歩くと、クロと母と私が一緒に暮らした旧宅につく。この道の途中には両側が田んぼで堤防のように盛り上げられた場所がある。人家が途切れて、土手の両側には桜(ソメイヨシノ)の古木が並木をなしていて、美しい道だったのだが、母には恨みの場所である(この桜並木は今はない)。
 クロが家に来て、初めての狂犬病の注射で町役場に向かうとき、他の牡犬を見つけたクロが猛然と走り出してしまったのだそうである。牡犬として世界制覇の夢があったのである。止めようとした母は尻餅をついたのだが、そのままクロに引きずられて、砂利道で尻スキーをした、と母はカンカンであった。そんなことがあった道である。


クロ2-2
Photo A 旧宅時代のクロ。犬小屋はこの土間の左手にあるが、いつもここに出て来て家の中の様子をうかがっていた。 (昭和36(1961)年頃)

 町役場を出たあとのクロは、この旧宅付近をしばらくうろついていたらしい。旧知の人がたくさんいて、声をかけてもらうのを楽しんでいたということだ。とくに、旧宅の隣2,3軒の家には、玄関に入り込んで挨拶したり、餌をもらったりしていた。母と仲がよかった旧宅の近所のおばちゃんたちの話である。

 こうしたパトロールを終えると、早ければ午後3時頃に帰宅する。時には遅くなるが夕餉には必ず間に合うように帰ってくる、と母は楽しそうに話していた。母の話を聞きながら、クロの巡回の間、家には母が一人残されていて、番犬という犬の欠かせない仕事を放棄してはいまいか、と私は思ったりした。
 しかし、次兄も義姉も家族である。長兄も家族の一員と認めれば、家族に対してあまねく公平に番犬としての恩恵をふるまっているとも考えられるのである。犬は自分の仕事が何であるかを理解しさえすれば、忠実にそれをこなす。ときにはその仕事に対する執着が強すぎることもあるが(イオがときどきそうなって私を困らせている)、犬としてはまったくまともなふるまいだったろう。


クロ2-3
Photo B この頃はパトロールの日々は終わっていた。ピクニックのクロ。結婚直後、妻と甥と。(昭和46(1971)年4月頃)

 このクロの巡回の日々も、数年で終わりになる。

 長兄は隣町の中学校へ転勤となり、次兄は独立(脱サラ)して行政書士や不動産鑑定などの事務所を開いた。義姉は次兄の事務所を手伝うこともあって、病院を辞職した。家人護衛のパトロール(?)は、必要がなくなったのである。

 コースの決まったパトロールは行われなくなったが、その後もクロの町内徘徊は続いていたようである。
 なにしろクロの知己は多いのである。この街には中学校は一つだけ、町内の中学生のほとんどははクロを知っている。町立病院では町内のお年寄りの多くを味方にしたらしい。町役場では、町内のバリバリの大人たちの面識を得ていただろう。私の知己などは、クロの顔の広さに較べたらいないも同然である。

 じつは、クロは私の知らない家で、最後を迎えた。次兄の家から見て小学校の向こう側の農家で、2日ほど世話になっていて容態が急に悪化したらしい。連絡を受けて次兄が行った時には、既に息を引き取っていたということだ。クロがそこで食餌をもらうことは何度もあったらしい。いつものように食餌を与えていても帰らないので不思議に思っていたという。弱ってしまい、帰る気力がなかったのだろう。

 クロが死んだ後、クロに食餌をやったという人があちこちから名乗り出て来たのである。町内のいろんな家で世話になっていたということだ。引っ込み思案の私とは違い、たいへん社交的に暮らした犬だったのである。長兄や次兄への遠慮や気遣いもあっただろうが、町内の人は、クロにはたいへんやさしかった(らしい)のである。
放し飼いのクロは、次兄宅の滞在を終えて仙台に帰る私をいつも見送ってくれる。家を出る私のあとをついてくるのである。しばらく一緒に歩いてから、もう帰れと言うと立ち止まって私の顔を見上げている。少し歩いてからふり返ると、10メートルほど離れてついてくる。叱られると思うのか、眼を合わせると家の陰にスッと入ってしまう。また少し歩いてふり返ると、さっきよりは距離が広がるもののやはりついてきて、やはり私に気付かれると家の陰に入ってしまう。
 このくり返しである。駅前の道は大きく広がって、少し坂を登ると駅舎に着く。駅舎から駅前広場を望み、クロを探してみるがどこにも見つけられない。さっきまでは確実に後をついてきたはずなのに、いつも駅前では姿を見ることはない。私が駅に行くことの意味を知っているのだろうと思って、涙が流れそうになる瞬間である。別れはいつもそうなる。


 寒き道を何時までも従きてくる犬かわれは頒けてやる倖せもたぬ
                  中条ふみ子 [3]

 時代やロケーションに強く依存することとはいえ、クロはほとんどの時間を放し飼いであり、晩年に到っては、食餌をもらいつつ、町を歩き回ることが許されていたのである。ほんとうに、驚くほどの故郷の人々の寛容さである。
 いま、仙台で犬を飼っている状況からは、時間にも空間にも越えられないギャップが暗い空無のように開いているように思える。

 ミュンヘンからガーミッシュ・パルテンキルヒェンへ向かう列車に大型のコリー犬が乗り込んできたり、ウィーンでは王宮に隣接する繁華街コールマルクト通りをイングリッシュ・セッター(たぶん)が悠然と歩いて行くのを目撃したりして、彼我の差に歴然とすることがあった。
 路上のカフェのテーブルに大勢の人が坐っていて、道にはたくさんの観光客もひしめいているのに、あたかもどこかの見知らぬ人間が急ぎ足で通りすぎたかのように、まるで無関心で犬の通過をやり過ごしているようなのである。その犬から眼が放せなかったのは、私だけだったのではあるまいか。
 また、ケンジントン・ガーデンズ(ロンドン)では、芝生の上を子供も犬も白鳥(アヒルも)も勝手に走り回り、飛び回っているのであった。鳥たちの糞で、お世辞にも美しいと言えない芝生の上で、鳥たちにちょっかいを出さずに走り回る犬たちとそれを怖れもしない鳥たち、という構図は日本ではほとんど見ることが不可能である。犬は犬でよく躾けられているのであろう。

 これらの国、都市での飼い犬規制のありようをよくは知らないのだけれども、古来から人間の同伴者として自然的、社会的地位を占めてきた犬たちは、いまもその地位を尊重されているらしいことだけはうかがえるのである [4]


 誰も彼もいなくなりたる公園に木霊となりて犬とわれ居り
                    道浦母都子 [5]

 いま、この美しい歌は東京で可能なのだろうか。最近、東京の街を歩いてみているが、街角にある小さな公園には、犬を入れてはいけないという規制看板をよく見かける。東京の人は犬を連れての散歩では、近所の公園に入れないということらしいのである。糞をする、尿をすると言うのが主な理由だろうと思う。残念ながら、犬の糞の始末が嫌な飼い主はどこにでもいる。
 でも、最近気になるのは「他の人の迷惑になるので」という文言が入ることである。犬がいること自体が迷惑になるというのはどういう事態だろう。「犬の嫌いな人もいるから」という言い訳を時として聞くこともある。犬が嫌いだから、公共の場所から排除せよ、という論理が公共道徳の顔を装って表出してきているのではないか、と思ったりして少し寒気がすることがある。
 排除の基底にあるのが、「好き嫌い」であるとすればこれは少し恐ろしいことと規定してもよい事象だろう。「俺はあいつが嫌いだ、俺が生きるこの社会からあいつを放り出せ。」 このような精神の薄汚さは、「たかが犬」のことだからこそ簡単に顕わになるのであろう。歴史から抽出して、身にまとうべき切実な倫理は確かに何度も再発見されて、繰り返し繰り返し学ぶべき機会は(不孝にも)何度もあったはずなのに。
 急激に近代化を果たした日本の「超資本主義」社会では、フーコー風に言えば、人は均質で代替可能な存在となるべく訓育されてきた。「多数性」(多様性ではない)が主要な審級で、大勢と異なるマイノリティはいつも排除される危険にさらされている。人間においてそうであってみれば、犬の排除がどれほどのことがあろうか、と多くの日本人は考えている、というのは私の穿ちすぎだろうか。不寛容の時代、不寛容の社会、日本の今に対するそれが私の実感である。
 世の中は時代とともに知恵を得て、知識を得て、発展し、良くなる、というのは明らかに蒙昧で愚かな幻想ではあった。

 クロは本当に良い時代、良い場所でその11年を生きて、そして死んだ。クロと同じ時間を生きた人々もおおかたいなくなった。クロの死よりずっと後であるが、義姉(次兄の妻)は2004年5月に亡くなり、2006年2月に102才で母が亡くなり、翌2007年7月には次兄も逝った。さらに3年後、2010年4月には長兄も逝ってしまった。


 外には雨が降っているので
 静かに 死んだ犬のことを考えている
 家人が外からもどってくると
 バネ仕掛のようにはねまわっては
 とびついてきた犬のことを
 いまは静かに考えてやっている
 外にはただ雨が降っているばかりなので

           伊藤桂一「雨の日に」 [6]

 いや、私はクロのことばかり考えているわけではない。母のことも、兄たちのことも、クロの後に死んだホシのことも、五月晴れの日なのに思い出しているのだ。 


[1] 「竹山広全歌集」(雁書館 2001年) p. 155。
[2] 「定本 種田山頭火句集」(彌生書房 昭和46年) p. 121。
[3] 「現代歌人文庫4 中条ふみ子歌集」(国文社 1981年)p. 61。
[4] この典型例ははアテネである。NHKの「世界ふれあい街歩き・アテネ」によれば、アテネ市内は野良犬がいっぱい歩きまわっている。ブティックの入口で野良犬が寝ていると、、店主と客は乳母車を抱えて犬を起こさないように店に入るのである。野良犬は定期的に捕獲され、健康状態を調べられ、健康であれば(引き取り手がない場合)、再びもとのアテネ市内に放されるである。日本では、犬どころの話ではない。ホームレスの人が定期的に無料で健康診断を受けるシステムがあるということを聞いたことは(少なくとも私には)ない。だからといって、「そのようなギリシャ人の心性がギリシャ国家が経済的に破綻する理由だ」というような短絡的な(ガチガチの新保守主義的な)議論に与する気は、私には全くない。
[5] 「道浦母都子全歌集」(河出書房新社 2005年) p. 446。
[6] 「日本現代詩文庫6 新編・伊藤桂一詩集」(土曜美術社出版販売 1999年) p. 118。

(2011年6月8日に書いてホームページに掲載していたものをホームページを閉じるにあたり、転載しました)。

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犬といた日々:犬が来た(イオ)

 3ヶ月ほどは死んだホシのことをぶつぶつ言い合いながら暮らした。死んだ犬の思い出話は楽しくない、犬の悲しみは犬にしか慰められない、などと言うことも口の端にのぼるようになると、新しい犬だという結論まではあっという間であった。
 妻が、仙台市の動物管理センターで月初めに生後3ヶ月の仔犬の譲渡会があるということを調べてきて、さっそく申し込み、12月1日に妻と勇んで出かけたのである。だが、これはいくぶん辛い経験であった。
 譲渡候補の仔犬は15匹前後、譲渡希望者はたった5組、しかもそのうち2組は気に入った犬がいないとそのまま帰ったのである。私たちは顔を見合わせ、何も言えず、残った仔犬の行く末を想像しないようにしていたのだ。
 すぐに私たちは15匹の中から1匹を選んだ。その犬の檻の前後には、良く似た仔犬が入っていて、兄弟/姉妹犬の1匹らしかった。15匹のほとんどは、がやがや話し声を上げながら檻の前を行ったり来たりする人間たちに半分は怯え、半分は声をかけられたいのか小さな尾をしきりに振っているのだ。
 そんな犬たちの中で、怯えもせず、尻尾も振らず、斜に坐って、前面の網に右肩で寄りかかって通りすぎる人間たちを眺めている犬がいたのだ。
 その犬を見たとき、「はすっぱ女」という言葉が浮かんだ。3ヶ月の仔犬にはまったくふさわしくないが、田村泰次郎の小説に出てくるような、戦後の混乱期をたくましく生きた娼婦たちのイメージである。絶望やあきらめを通り抜けたような、静謐さ、無表情で、しなだれかかっているのである [1]。
 その「はすっぱ女」が気に入って、妻のほうを見ると、どうも妻もその気になっていたらしく、決定は躊躇なかった。あとは、抽選はずれにならないよう、他の人に気に入られないことを祈るだけである。「はすっぱ女」はやはり牝であった。


イオ-1
Photo A これが「はすっぱ女」。これから動物管理センターから我が家に向かう。(平成12(2000)年12月1日)

 仔犬は助手席の妻に抱かれて我が家に行くのだが、25分ほどのドライブの最後に、妻の胸に吐いてしまった。その1週間ほど後にも車の中で戻したが、その2回を乗り越えると、無類の車好きになって私を困らせることになるのだ。
 ホシと同様、初めての我が家に戸惑い、不安そうであったものの、2時間ほどたったら居間の真ん中で長々となって熟睡しているのである。「しょうがない。この家で生きていこう。」と覚悟するのに2時間である。ホシは6時間ほど要した。大きくなっていたクロには初めから不安そうな様子はなかった。
 ホシは「星」だったので、月かなんかに因んだ名前がよいだろうということになったものの、「ツキ」は直裁でちょっと変、「ルナ」なんてのは気恥ずかしい。アメリカの探査機ガリレオが木星に向かって飛び続けている頃だったし、ホシは一番星、金星由来の名前なので、それなら木星の月(衛星)にしようということで「イオ」に決まった。
 「io」はゼウス(ジュピター)に誘惑されるギリシャ神話の女神に由来するのだが、これもネーミングとしては図々しいというか、いくぶん気恥ずかしさもあるので、女神の話は知らなかったことにしたのである(その時は)。


イオ-2
Photo D 我が家の初日のイオ。段ボール箱の臨時ベッド。(平成12(2000)年12月1日)

 イオは我が家での10年を、車で山へ出かけることを無情の喜びとして生きている。


[1] 「はすっぱ女」をけっしてネガティブに感じていたわけではない。前田愛は書いている。「きれいにうちならされた焼跡の瓦礫を地にして、いっさいの虚飾をはぎおとされたぎりぎりの人間の生が、鮮烈なイメージを浮上させる。『肉体の門』の娼婦たちの澄んだ瞳と、『雪のイヴ』の少女のつめたく、きびしい「肉体の部分」とが意味するものは、同じ方向を指し示している。いいかえれば、かれらがまのあたりにした荒廃の風景が放射している負のエネルギーは、めいめいの文学的個性の差異をこえたところで強力に作用しつづけていたわけであり、それは「虚無」というような手頃な言葉では要約しきれない何かなのである。」 (『都市空間のなかの文学』 筑摩書房、1982年、p. 419)。

(2011年5月25日に書いてホームページに掲載していたものをホームページを閉じるにあたり、転載しました)。


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プロフィール

小野寺秀也

Author:小野寺秀也
山歩き、アユ釣り、ヤマメ釣り、山菜採り、茸狩り、花いじり、読書、美術館巡り、街歩き、などが趣味。加えて、犬と遊ぶこと、ぼんやりしているのも趣味の一つです。最近は、原発事故による放射能汚染で魚、山菜、茸は諦めています。

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