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「ください!」→「ちゅうもくっ!」→「………」

 猫の写真を撮るのは難しい。コトラは、カメラをとても気にします。一眼レフを構えると、さっとどっかに行ってしまいます。もっぱらスマホで写すことになります。

「ください!」
 人間たちの食事時、足元でおすそ分けを待っています。コトラ用に作った味付けなしの魚や肉を小皿にもらいます。私からもらう分はこれくらいと判断すると、妻の足下に向かいます。テーブルの上では、コトラ食が妻の前に移動します。


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「ちゅうもくっ!」
 人間たちがテレビに夢中になっていると、テレビの横の1メートルほどの高さの木製キャビネットの上に飛び乗ってみんなの顔を見渡します。それを無視していると大きな声で鳴き始めます。


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「………」
 最近の家族の一番人気は、コトラの得も言われぬ神妙な表情です。トイレの角に4本脚でバランスよく乗ってオシッコをしているときの顔です。


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   街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)

   読書や絵画鑑賞のブログ
かわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)






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コトラ・ショット : あれはなんだ!

 壁掛け時計を見つけました。時計の中で揺れている飾り振り子に目が釘付けです。
 このあと、写真立てやトロフィーを倒してしまい、びっくりして逃げ出しました。


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 次に目を付けた掛け時計は秒針が動いているだけですが、釘付けになっていました。しばらくうろうろしていましたが、脇のパソコンデスクに登頂ルートを発見したようです
 プリンたーまで上がりましたが、あてにしていた時計のすぐ下の棚には天板がありません。しばらく身を乗り出していましたが、あきらめてプリンターの上でふて寝をはじめました。


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犬といた日々――高所恐怖症(ホシ)

 1985(昭和60)年の8月初め、妻、息子(中1)、娘(小5)、ホシ(1歳半)と大東岳の南麓を流れる大行沢で2泊のキャンプに行った時のことである。私のイワナ釣りと大東岳の登山、それに子どもたちの夏休みイベントをいっぺんに片づけようというわけである 。
 ホシにとっては、残念ながら受難のイべントだったのであるが。


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Photo A 大東岳遠景(仙台市秋保、長袋地区から)。  (2010/5/8)

 大東岳は、奥羽山地の蔵王山群の北に位置し、小東岳、南面白山、面白山などと山群を形成している標高1365.8mの山である。仙台から小1時間で登山口に行ける手頃な山である。私の場合は、若い頃はイワナ釣りと登山の山であり、仕事が忙しくなった時期には大行沢沿いの往復3,4時間のトレッキング(散歩?)の場所であり、最近では山菜や茸狩りの山でもある。
 その頃は、もうそろそろイワナ釣りをやめようかと思っていた時分ではあったが、イワナ釣りで通い慣れていた大行沢にはテントを張るのに最適な場所が何カ所かあったのである。
 当時の私は自家用車をまだ持っていなくて、原付バイクで近郊の山や川に出かけていた。原付バイクは立派な道路の長距離にはむいていないが、でこぼこで細い山道には便利だったのである。
 キャンプ用の大きな荷物と家族を仙台駅発二口温泉行きのバスに乗せ、私は原付バイクの後ろの竹籠 [1] にホシを乗せてバスを追いかけるのである。ホシは涼しそうな顔で籠のなかでに坐っている。何度か乗っているのだが、いつも興奮もしなければ、恐がりもしない。いつも淡々とした表情なのである。
 バスの実際の終点は、二口温泉の先、大東岳の登山口のある本小屋となっている。大行沢沿いの道は、本小屋から2km程は旧林道であり、今は無理だが、当時は小さな車であればなんとか入れたのである。ホシと家族は本小屋から歩き、私はバイクで2往復して荷物を運んだ。林道の終点からはほんの少しの距離で、テントを張る。


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Photo B 水は嫌い。家族の水遊びが恨めしいホシ。 恐怖はこの後に。(1985年8月)

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Photo C 大行沢で泳ぎの特訓を受けるホシ。これで水嫌いは決定的に。(1985年8月)

 水に入りたがらないホシを抱いて浅いところに立たせる、ということから始めて、少しずつ足が届かないところに放すという段取りである。足が届けば何でもないが、腹に水がつくあたりでパニックが始まる。
 それでも、ホシに泳ぎを教える必要は全くなくて、深みで放せば、水に入れた瞬間はバシャバシャする(Photo C)が、すぐに岸に向かって普通に泳ぐのであった。泳ぎは本能的に上手なのである。しかし、自分からは決して水に入ろうとはしない。最後には林を突っ切り、逃亡してしまった。結局は、水嫌いを助長しただけの「訓練」なのであった。

 ファミリーキャンプらしく、夕食後は花火遊びである。。谷川の水音が下の方から聞こえるだけの、真っ暗なぶな林の中の線香花火はいつもより大きく輝くように見え、子供より妻のほうが夢中になる。ホシは花火には関心がないふりをしているが、本当は少し苦手なのだ。
 ホシが興奮し始めたのは、4人と1匹が狭いテントの中で並んで寝ようとしているときであった。当時のホシは、まだ庭で暮らしていて、たまに家に上げてもらうだけだったからである(その後まもなく、庭の犬小屋を使うことなく、フルタイムの家犬になった)。
 ホシの興奮を静め、たった一人で泊まった山小屋経験から、「人間世界の出すノイズのない夜の山は、遠くや近くでなにかの動物の移動する音が木々をかすめる風の音に混じって、じつに賑やかなのだ」などと子どもたちに話して聞かせたものの、そこでは渓流の音しか聞こえないのだった。
 みんなが聞こえない音を聞こうと耳を澄ませているとき、ホシは体を起こし、耳を立て、低くうなり声を少し上げたのである。外に出たがるので、テントを開けると、入口まで出て、ブナの原生林の急斜面を見上げて、ときどき低くうなる。
 私たちは、少しの興味とそれより大きい恐怖に押されて、テントから顔を出してホシの見つめる方向を見るのだが、もちろん真っ暗で何も見えない。耳を澄ましても、あいかわらず、谷川の音ばかりで何も聞こえない。
 じわじわと増えていく不気味さに私たちは声も出せなかったが、ホシはフッと緊張感を解くと、さっさとテントに入って横になってしまった。何があったのかわからないまま、私たちも少しは安心して眠ることにしたのだが、妻はとっくに熟睡中なのであった。

 ホシは性格の穏和な犬である。「気ぃつかい」で、あまり犬らしくないのである。基本的なしつけをするときでも、すぐに身につける犬だった。眠りに入りかけの頭でホシのことを考えていたとき、さっきの緊張感漂う警戒の姿勢は、昼の水泳訓練への仕返しではなかったのか、などと思ってしまい、思わず寝ているホシの方を見ると、私の体の動きに反応して、ホシもこっちを見上げているのだった。

 次の日は大東岳登山だ。朝と昼の弁当を持って、夜明けとともに出発である。いったん本小屋の登山口まで下り(実際はほとんど平坦だが)、立石沢にそったコースを上る。頂上直下に鼻こすり坂という急坂があるだけのこのコースを登り、「弥吉ころばし」の急坂から大行沢沿いの道を降りのコースとするのが普通である(私の場合は)。
 家族の荷物を背負う私だけが、ヒーヒーいっているだけで、4才くらいから山に来ている(最初は私の背中の上でではあるが)息子も娘も、ホシも妻(ゆっくりの長距離に強い)も軽快に路程をこなす。
 みんなの前後を飛び回りながら快適に飛ばしていたホシも、鼻こすり坂をすぎて頂上台地に着く頃には暑さにばてて、走って前に飛び出しては、溝状にえぐれた登山道にぴったりと伏せて、腹を冷やしているのである。私たちが通りすぎてもしばらくはその姿勢を保ち、ふたたび私たちを追い越して、先で体を冷やしながら私たちを待っているのである。


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大東岳周回コース  (地図のベース:「プロアトラスSV4」)

 頂上から少し降り、台地の南端からの蔵王方向の眺望をゆっくり楽しんだ後、弥吉ころばしと呼ばれる急坂を下る。沢に出るまで一挙に下ろうということになった。この決断がホシの悲劇の始まりであった。
 この急坂には前を向いてそのまま下れないような高い段差がいくつもあって、子供や妻に指図したり手を貸したりで忙しかった私は、軽快に走り下っているように見えるホシに気を配る余裕はなかったのだ。犬としては長時間水分補給がなかったのである。
 弥吉ころばしの急坂が終わって、道は「がくり沢」 [2] の左岸に直角にぶつる。水音か水の匂いかで谷川の水を感じたホシは、渇きに負け、水に向かって突進したのだ。薮を分ける音に続いて「キャゥン」というような悲鳴一つを残して、何の音もしなくなったのである。崖下へ転落したのだ。
 崖を降りることもできない私たちは、急いで沢の出会いまで登山道を下った。長く感じたが、たぶん5,6分で沢に出会い、ザックを下ろし、子どもたちをその場で待たせて、沢を登った。さいわい小さな沢で水も少なくて歩きやすいのだが、底は岩盤で、ここに叩き落ちたのかと思うと、気が気ではない。
 現場下に着くと、ホシが駆け寄ってきた。抱きとめて、体を調べてみたが、どこにも怪我はなさそうで、ひとまずはほっとした。現場から一歩も動かずにいたのは、崖上に私たちがいるものと思って、なんとか戻ろうとしていたためらしい。 


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Photo D 「遭難」現場のがくり沢(ケヤキ沢?)。登山道は右手より直角に沢の崖上まで来て左折し、この沢の左岸を、手前、樋の沢に向かって下る。 (2007/8/11)

 みんなで心配したけれども、これはこれで無事に終わったのだと私も家族も思っていた。ホシも落下する前と変わらず、愉しそうに山道を歩いてついてきたのである。
 その晩はテントでの2泊目で、昨晩のようにホシの警戒行動に脅かされることもなく、みんな熟睡できた。翌朝は、またイワナをたくさん釣って、そのなかから焼き魚に適当なサイズを3匹選び、留守番をしているおばあちゃんへのお土産に帰ってきた。こうして夏休みのキャンプは楽しく終わったのだった。そのはずであった。

 家に帰れば、ホシもいつもの暮らしに戻る。そこには私といっしょに出かける朝と夕方の散歩もある。

 私の家は仙台の市内を流れる広瀬川の河畔にある。広瀬川は仙台城趾のある青葉山丘陵を切り裂くように東流し、市街地に入るとすぐ南に流れを変え、竜の口渓谷を合わせる。つまり、広瀬川と竜の口渓谷に囲まれた天然要塞に伊達政宗は居城を構えたわけである。
 広瀬川を境とすれば、私の家は仙台城趾側に位置している。したがって、たいていの外出は広瀬川にかかる4つの橋(どの橋を通っても仙台城趾と周辺の東北大学キャンパスに通じている)のどれか一つを通ることになる。
 ホシと私の散歩は、仙台城趾周辺から橋を一つ渡り、川向こうの大きな公園を通り、別の橋を渡って帰ってくることが多い。それ以外のバリエーションでも、どれか二つの橋を渡って周回するということがほとんどなのだ。

 キャンプから帰ってきた翌朝、いつものように散歩に出た。その日は一番近い橋を通って川向こうの公園に行こうとしたのだが、橋を歩き始めるとすぐホシは立ち止まってしまった。いくら声をかけても動こうとしない。強引に引っ張ろうとすると、足を突っ張って抵抗するのである。
 朝早い通行人が、ホシと私を見て笑って過ぎてゆく。少し恥ずかしいこともあって、そのまま引き返し、家の近くの堤防を少し歩いて、その日の散歩は終わりとした。
 それからの散歩もまったく同じであった。どの橋を通っても、3分の1も進まないうちに止まってしまって、前に進まないのである。一つの橋は歩道が4,5mほどある大きな橋で、ある時、その歩道の車道寄りを歩くと端の中頃まで達してから抵抗が始まったのである。
 ホシは橋の下、川や川原が見えると立ちすくんでしまう、ということにやっと気がついた。あの崖からの転落の恐怖がよみがえり、動けなくなるということらしい。高所恐怖症なのである。

 高所恐怖症のリハビリテーションが始まった、と書くと大げさだが、要するに餌で釣ってできるだけ橋の中央に誘い出すというごくごく単純な作戦である。さいわい、ホシは食べることに異常な意欲を持っている。好き嫌いははっきりしているが、食欲には絶対に勝てないタイプの犬である [3]。精神の病に食餌療法が効くのだ(人間だったら大発見だったのに)。
 1週間ほどで広い歩道の車道側であれば、その橋を渡ることができるようになった。それでも、欄干側に近づいたりするとやはり歩けなくなる。手を変え品を変え、とはいうものの、変えたのは餌の種類だけだが、1ヶ月半ほどで喜んで渡るようではないが、抵抗はしないでどの橋も渡れるようになった。
 薬や化粧品と同じように、高価な餌ほどよく効いた、というのはどうしたって思い過ごしだけれども、散歩ではたっぷりと、しかも高価な純粋な肉系の餌をもらえるというホシの信念からの脱却、新しいリハビリテーションにはもっともっと長い時間がかかったのだった。



〔1〕 当時の私は、道具の多い鮎の友釣りでは釣り道具を入れた竹籠をかついで川に通っていた。行商人が担ぐような角形の大きなもので、上面には道具がこぼれないように手編みの口絞りネットを張ってあり、15~20kg程度の犬なら十分におさまるのである。
〔2〕 事故現場から7,8分下って沢に出た付近に「がくり沢」の表示があった(Photo E)ので、この沢をがくり沢だと思いこんでいたが、ある登山案内では「ケヤキ沢」と呼んでいる。詳細はわからないが、がくり沢はケヤキ沢の支沢の可能性もある。

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Photo E 「遭難」現場から7,8分下ったところにあった「がくり沢」の案内表示。ある登山案内では「ケヤキ沢」とあって、その関係は不明。  (2007/8/11)
〔3〕 これは、ずっと後のことだが、娘が友人たちと広瀬川の川原で芋煮会(地方伝統の秋のピクニック。肉と里芋の入った鍋を囲む行事)をしたとき、、ホシも同伴してごちそうになった。ほかにも大勢のグループがいて、それぞれがホシに鍋をふるまったのである。食べ過ぎたホシは薮のなかで頂いたものを戻して、ふたたび愛想を振りまきながら貰い続けた、と娘があきれていたことがあった。そんな犬である。

(2011年9月7日に書いてホームページに掲載していたものをホームページを閉じるにあたり、転載しました)。



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犬といた日々――パトロールの日々(クロ)――

ふはふはと歩みておれば地べたより老犬クロに一瞥されぬ
               竹山広 [1]

 クロと私は、私が14才から16才までの3年間しか同じ家で暮らしていない。17才になってすぐ、私は故郷を離れ、仙台で暮らすようになる。クロは、母に従って次兄の家に引っ越した。
 3年間は確かに私が飼い主だったけれども、その後は次兄が飼い主となったのである。誰が飼い主かなどという取り決めや話はまったくなかったのだけれども、家族の誰もが自然にそんなふうに理解していていた。

 私がたまに帰郷すると、クロと私はいつもひっついていて、クロにしてみれば、非日常的な日々ということになる。帰郷してすぐの私の仕事は、たいていの場合、長毛だったクロのブラッシングとシャンプーが普通だった。
 どちらも嫌いなクロは、開放されると家の前の畑を縦横無尽に、つまり畑の作物など頓着せず、濡れた体で全力で走り回り、ころげまわるのであった。私の家族は農家ではないので、当然ながら人様の畑を荒らしているのだが、持ち主は土まみれになったクロを見て笑っているのであった。私は戦々恐々としているのだったが。

 私の不在の時がクロにとって普通の毎日で、それを私が見ることはもちろんできなかったのである。
 これは母や兄たち、故郷の知人たちの話の総合である。

 クロは朝夕二度、餌をもらう(これは、その後のホシもイオも同じである)。朝食を終えると、次兄の家族は母を残して家を出る。次兄夫婦は仕事を持っていたし、二人の甥はそれぞれ小学校や幼稚園に出かける。
 母だけになった家で、食後の30分から1時間程度を過ごしたクロもまた、どこかに勤務先があるが如く毎日次兄宅(地図ポイント1)から出かけるのだそうである(ここまでは母の話)。

 クロがその1日をどの道をどう歩いたかはじつはよくわからない。クロが生きていた町(私も16才まで暮らした町だが)の地図を掲げ、クロが歩いたであろう道を示しているが、これはあくまで目的地のある人間が歩くであろうコースであって、犬が同じように歩くという根拠はとくにないのである。

 まずはじめに、クロが目撃されるのは地図ポイント2の中学校である。中学校の玄関を入り、コンクリート床に寝そべっているのだそうである。
 当時、この町の中学校には長兄が教頭として勤めていて、その長兄への表敬訪問らしいのである。クロは長兄と一緒に暮らしたことはないのだが、家族の一人と認めていたのだろう。


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クロのパトロールコース(地図のベース:「プロアトラスSV4」)

 町中の中学生に声を掛けられ、撫でて貰いなどしているうちに、仕事の合間を見つけて現れた長兄に声をかけてもらうまで中学校の玄関に居続け、長兄との挨拶が終われば姿を消すのである。ここまでは長兄の話。

 次に姿を見せるのが、地図ポイント3の町立病院である。やはり、玄関の三和土に寝そべり、町中の病人の挨拶を受けているのだ。ここには義姉(次兄の妻)が事務職として勤めていて、玄関近くに事務室があるので、義姉がクロに気付いて声をかけてくれるまではそんなに時間がかからず、中学校ほどは長居ではなかったらしい。義姉の話である。

 病院を出たクロは、地図ポイント4の町役場に現れる。ここには次兄が勤めていた。玄関で寝ていたり、うろうろしていたらしいが、やはり次兄が声をかければまもなく姿を消すのだそうである。しかし、玄関から離れた場所にデスクがあるうえに、町中のいろんなところに出かける職種の次兄が、クロに声を掛けられるチャンスは多くなく、そんなときには1時間ほどで姿が見えなくなったということである(次兄と役場の職員の証言)。
この後の行動は、突き合わせが十分ではないので、町役場を出た後の行動かどうかは直接の証拠はない。ここまでの行動は週日のほぼ毎日で、この後の行動もかなりの頻度で目撃されているので、やはり町役場の後の行動であったろう。

 町役場を出て北への道を(人間の足で)15分ほど歩くと、クロと母と私が一緒に暮らした旧宅につく。この道の途中には両側が田んぼで堤防のように盛り上げられた場所がある。人家が途切れて、土手の両側には桜(ソメイヨシノ)の古木が並木をなしていて、美しい道だったのだが、母には恨みの場所である(この桜並木は今はない)。
 クロが家に来て、初めての狂犬病の注射で町役場に向かうとき、他の牡犬を見つけたクロが猛然と走り出してしまったのだそうである。牡犬として世界制覇の夢があったのである。止めようとした母は尻餅をついたのだが、そのままクロに引きずられて、砂利道で尻スキーをした、と母はカンカンであった。そんなことがあった道である。


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Photo A 旧宅時代のクロ。犬小屋はこの土間の左手にあるが、いつもここに出て来て家の中の様子をうかがっていた。 (昭和36(1961)年頃)

 町役場を出たあとのクロは、この旧宅付近をしばらくうろついていたらしい。旧知の人がたくさんいて、声をかけてもらうのを楽しんでいたということだ。とくに、旧宅の隣2,3軒の家には、玄関に入り込んで挨拶したり、餌をもらったりしていた。母と仲がよかった旧宅の近所のおばちゃんたちの話である。

 こうしたパトロールを終えると、早ければ午後3時頃に帰宅する。時には遅くなるが夕餉には必ず間に合うように帰ってくる、と母は楽しそうに話していた。母の話を聞きながら、クロの巡回の間、家には母が一人残されていて、番犬という犬の欠かせない仕事を放棄してはいまいか、と私は思ったりした。
 しかし、次兄も義姉も家族である。長兄も家族の一員と認めれば、家族に対してあまねく公平に番犬としての恩恵をふるまっているとも考えられるのである。犬は自分の仕事が何であるかを理解しさえすれば、忠実にそれをこなす。ときにはその仕事に対する執着が強すぎることもあるが(イオがときどきそうなって私を困らせている)、犬としてはまったくまともなふるまいだったろう。


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Photo B この頃はパトロールの日々は終わっていた。ピクニックのクロ。結婚直後、妻と甥と。(昭和46(1971)年4月頃)

 このクロの巡回の日々も、数年で終わりになる。

 長兄は隣町の中学校へ転勤となり、次兄は独立(脱サラ)して行政書士や不動産鑑定などの事務所を開いた。義姉は次兄の事務所を手伝うこともあって、病院を辞職した。家人護衛のパトロール(?)は、必要がなくなったのである。

 コースの決まったパトロールは行われなくなったが、その後もクロの町内徘徊は続いていたようである。
 なにしろクロの知己は多いのである。この街には中学校は一つだけ、町内の中学生のほとんどははクロを知っている。町立病院では町内のお年寄りの多くを味方にしたらしい。町役場では、町内のバリバリの大人たちの面識を得ていただろう。私の知己などは、クロの顔の広さに較べたらいないも同然である。

 じつは、クロは私の知らない家で、最後を迎えた。次兄の家から見て小学校の向こう側の農家で、2日ほど世話になっていて容態が急に悪化したらしい。連絡を受けて次兄が行った時には、既に息を引き取っていたということだ。クロがそこで食餌をもらうことは何度もあったらしい。いつものように食餌を与えていても帰らないので不思議に思っていたという。弱ってしまい、帰る気力がなかったのだろう。

 クロが死んだ後、クロに食餌をやったという人があちこちから名乗り出て来たのである。町内のいろんな家で世話になっていたということだ。引っ込み思案の私とは違い、たいへん社交的に暮らした犬だったのである。長兄や次兄への遠慮や気遣いもあっただろうが、町内の人は、クロにはたいへんやさしかった(らしい)のである。
放し飼いのクロは、次兄宅の滞在を終えて仙台に帰る私をいつも見送ってくれる。家を出る私のあとをついてくるのである。しばらく一緒に歩いてから、もう帰れと言うと立ち止まって私の顔を見上げている。少し歩いてからふり返ると、10メートルほど離れてついてくる。叱られると思うのか、眼を合わせると家の陰にスッと入ってしまう。また少し歩いてふり返ると、さっきよりは距離が広がるもののやはりついてきて、やはり私に気付かれると家の陰に入ってしまう。
 このくり返しである。駅前の道は大きく広がって、少し坂を登ると駅舎に着く。駅舎から駅前広場を望み、クロを探してみるがどこにも見つけられない。さっきまでは確実に後をついてきたはずなのに、いつも駅前では姿を見ることはない。私が駅に行くことの意味を知っているのだろうと思って、涙が流れそうになる瞬間である。別れはいつもそうなる。


 寒き道を何時までも従きてくる犬かわれは頒けてやる倖せもたぬ
                  中条ふみ子 [3]

 時代やロケーションに強く依存することとはいえ、クロはほとんどの時間を放し飼いであり、晩年に到っては、食餌をもらいつつ、町を歩き回ることが許されていたのである。ほんとうに、驚くほどの故郷の人々の寛容さである。
 いま、仙台で犬を飼っている状況からは、時間にも空間にも越えられないギャップが暗い空無のように開いているように思える。

 ミュンヘンからガーミッシュ・パルテンキルヒェンへ向かう列車に大型のコリー犬が乗り込んできたり、ウィーンでは王宮に隣接する繁華街コールマルクト通りをイングリッシュ・セッター(たぶん)が悠然と歩いて行くのを目撃したりして、彼我の差に歴然とすることがあった。
 路上のカフェのテーブルに大勢の人が坐っていて、道にはたくさんの観光客もひしめいているのに、あたかもどこかの見知らぬ人間が急ぎ足で通りすぎたかのように、まるで無関心で犬の通過をやり過ごしているようなのである。その犬から眼が放せなかったのは、私だけだったのではあるまいか。
 また、ケンジントン・ガーデンズ(ロンドン)では、芝生の上を子供も犬も白鳥(アヒルも)も勝手に走り回り、飛び回っているのであった。鳥たちの糞で、お世辞にも美しいと言えない芝生の上で、鳥たちにちょっかいを出さずに走り回る犬たちとそれを怖れもしない鳥たち、という構図は日本ではほとんど見ることが不可能である。犬は犬でよく躾けられているのであろう。

 これらの国、都市での飼い犬規制のありようをよくは知らないのだけれども、古来から人間の同伴者として自然的、社会的地位を占めてきた犬たちは、いまもその地位を尊重されているらしいことだけはうかがえるのである [4]


 誰も彼もいなくなりたる公園に木霊となりて犬とわれ居り
                    道浦母都子 [5]

 いま、この美しい歌は東京で可能なのだろうか。最近、東京の街を歩いてみているが、街角にある小さな公園には、犬を入れてはいけないという規制看板をよく見かける。東京の人は犬を連れての散歩では、近所の公園に入れないということらしいのである。糞をする、尿をすると言うのが主な理由だろうと思う。残念ながら、犬の糞の始末が嫌な飼い主はどこにでもいる。
 でも、最近気になるのは「他の人の迷惑になるので」という文言が入ることである。犬がいること自体が迷惑になるというのはどういう事態だろう。「犬の嫌いな人もいるから」という言い訳を時として聞くこともある。犬が嫌いだから、公共の場所から排除せよ、という論理が公共道徳の顔を装って表出してきているのではないか、と思ったりして少し寒気がすることがある。
 排除の基底にあるのが、「好き嫌い」であるとすればこれは少し恐ろしいことと規定してもよい事象だろう。「俺はあいつが嫌いだ、俺が生きるこの社会からあいつを放り出せ。」 このような精神の薄汚さは、「たかが犬」のことだからこそ簡単に顕わになるのであろう。歴史から抽出して、身にまとうべき切実な倫理は確かに何度も再発見されて、繰り返し繰り返し学ぶべき機会は(不孝にも)何度もあったはずなのに。
 急激に近代化を果たした日本の「超資本主義」社会では、フーコー風に言えば、人は均質で代替可能な存在となるべく訓育されてきた。「多数性」(多様性ではない)が主要な審級で、大勢と異なるマイノリティはいつも排除される危険にさらされている。人間においてそうであってみれば、犬の排除がどれほどのことがあろうか、と多くの日本人は考えている、というのは私の穿ちすぎだろうか。不寛容の時代、不寛容の社会、日本の今に対するそれが私の実感である。
 世の中は時代とともに知恵を得て、知識を得て、発展し、良くなる、というのは明らかに蒙昧で愚かな幻想ではあった。

 クロは本当に良い時代、良い場所でその11年を生きて、そして死んだ。クロと同じ時間を生きた人々もおおかたいなくなった。クロの死よりずっと後であるが、義姉(次兄の妻)は2004年5月に亡くなり、2006年2月に102才で母が亡くなり、翌2007年7月には次兄も逝った。さらに3年後、2010年4月には長兄も逝ってしまった。


 外には雨が降っているので
 静かに 死んだ犬のことを考えている
 家人が外からもどってくると
 バネ仕掛のようにはねまわっては
 とびついてきた犬のことを
 いまは静かに考えてやっている
 外にはただ雨が降っているばかりなので

           伊藤桂一「雨の日に」 [6]

 いや、私はクロのことばかり考えているわけではない。母のことも、兄たちのことも、クロの後に死んだホシのことも、五月晴れの日なのに思い出しているのだ。 


[1] 「竹山広全歌集」(雁書館 2001年) p. 155。
[2] 「定本 種田山頭火句集」(彌生書房 昭和46年) p. 121。
[3] 「現代歌人文庫4 中条ふみ子歌集」(国文社 1981年)p. 61。
[4] この典型例ははアテネである。NHKの「世界ふれあい街歩き・アテネ」によれば、アテネ市内は野良犬がいっぱい歩きまわっている。ブティックの入口で野良犬が寝ていると、、店主と客は乳母車を抱えて犬を起こさないように店に入るのである。野良犬は定期的に捕獲され、健康状態を調べられ、健康であれば(引き取り手がない場合)、再びもとのアテネ市内に放されるである。日本では、犬どころの話ではない。ホームレスの人が定期的に無料で健康診断を受けるシステムがあるということを聞いたことは(少なくとも私には)ない。だからといって、「そのようなギリシャ人の心性がギリシャ国家が経済的に破綻する理由だ」というような短絡的な(ガチガチの新保守主義的な)議論に与する気は、私には全くない。
[5] 「道浦母都子全歌集」(河出書房新社 2005年) p. 446。
[6] 「日本現代詩文庫6 新編・伊藤桂一詩集」(土曜美術社出版販売 1999年) p. 118。

(2011年6月8日に書いてホームページに掲載していたものをホームページを閉じるにあたり、転載しました)。

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コトラのネコ語文法は命令形だけ?

 「ネコ語文法、「命令形」のみ? 言語学者が研究」というニュース記事が『虚構新聞』というWEBサイトに掲載されています。
 木天蓼大学動物言語学部の小川判教授がネコを飼っている家庭300世帯の協力を得て、ネコの鳴き声を6カ月間にわたって収集して、AI(人工知能)を使って解析したところ、「(エサを)持ってこい」、「(ブラシを)かけろ」など明確な命令形の文法構造が確認できたものの、それ以外では確かな文法構造は確認できず、多くの飼い主が「ありがとう」と解釈している鳴き声は実際には何も感謝していなかった。そんな内容の記事です。
 もちろん、冗談です。『虚構新聞』は、ありそうで実際には存在しない出来事を新聞記事の形で掲載しているサイトで、時にはパロディが効いた記事もあって、いつも楽しみに読んでいます。

 記事は冗談ですが、現在のコトラには少し当てはまります。

(A) 家猫化途上のコトラは、自分が撫でてもらいたい時しか撫でさせません。それも必ず決まった場所だけで撫でさせます。
 撫でてもらいたくなると、鳴きながらパソコンの椅子と回収用の新聞、雑誌類のあいだの狭い場所まで行ってゴロンと横になります。すぐに撫で始めないと写真のように振り返って「ワーオー」(早くして!)と大声を出します。

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(B) コトラの食事は、朝7時と夕7時と決めていたのですが、時間前から「ゴーハーン、ゴーハーン」(そう、聞こえます)と命令形で騒ぐのに負けてしまって、今では6時前後の食事なっています。
 コトラの食事が終わって1時間ほどで人間の食事が始まります。そのとき、人間が発する「ごはん」という言葉を聞き逃しません。すぐに「ゴーハーン、ゴーハーン」と鳴き始めて分け前をねだります。人間の膝に手をかけたり、時には膝に飛び乗ったりして要求しますが、その時でも撫でさせたり抱かせたりはしません。


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   街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)

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小野寺秀也

Author:小野寺秀也
山歩き、アユ釣り、ヤマメ釣り、山菜採り、茸狩り、花いじり、読書、美術館巡り、街歩き、などが趣味。加えて、犬と遊ぶこと、ぼんやりしているのも趣味の一つです。最近は、原発事故による放射能汚染で魚、山菜、茸は諦めています。

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